毘沙門天って、どんな仏様?
毘沙門天とは
毘沙門天は大乗仏教で信奉される天部に属する護法善神の一柱です。サンスクリット語ではヴァイシュラヴァナ(Vaiśravaṇa)と呼び、「毘沙門」はその音写です。他にも吠室羅摩拏、毘舎羅門、鞞沙門と音写されます。
サンスクリット語での本来は「ヴァイシュラヴァの息子」という意味で、古代インド神話の神ヴィシュラヴァの名が変音したもので、ヴィシュラヴァの4人いる息子の一人です。
またヴァイシュラヴァに「名声」や「広く聞く」という意味があり、「多聞」と漢訳されました。つまり四天王の多聞天と毘沙門天は同体です。独尊で祀る時は毘沙門天、四天王の時は多聞天と使い分けます。
仏教では毘沙門天は帝釈天に仕え、世界の中心にある須弥山の北方・北倶盧洲(ほっくるしゅうう)を守護する武闘神です。また夜叉や羅刹などの鬼神を従えるとされています。一方で財宝神の性格を持ち、人々に金銀財宝をもたらすとされます。
毘沙門天の仏像の見分け方
毘沙門天の仏像は中国唐代の武将の姿で、身に革製の甲冑をまとい、右手には宝棒や三叉戟などの武器を、左手には宝塔を掲げる姿が一般的です。また毘沙門天像は足元に邪鬼を踏みつけている場合もあります。
また妻として吉祥天が共に祀られたり、毘沙門天を中心に吉祥天とその息子とされる善膩師(ぜんにし)童子とを脇侍に三尊仏で祀られたりします。毘沙門天を象徴する三昧耶形は宝棒です。
毘沙門天の由来
毘沙門天の由来であるサンスクリット語であるヴァイシュラヴァの名が初出は、古代インドのバラモン教の儀式典礼を記した『アタルヴァ・ヴェーダ』です。同書ではヴァイシュラヴァは夜叉(ヤシャ)族の財神クベーラの別名としています。
『アタルヴァ・ヴェーダ』は少なくとも起源前1500年頃成立し、紀元前500年頃には現在と同じ体裁に整理されたと推定される非常に古い経典で、初期インド密教にも多大な影響を与えました。
グプタ朝期(4~6世紀)に編纂されたヒンドゥー教の経典『マハーバーラタ』で、クベーラは日本の毘沙門天と同じく北方の方位神と位置付けされます。しかしこの時点では武闘神の性格は無く、ズングリとした小人で、地下に埋蔵した財宝を守護する財神の性格が強調さています。
さらにクベーラにはラジャタナービーという子がおり、ヒンドゥー教ではクベーラはシヴァ神に忠誠を誓った親友とされます。ヒンドゥー教の天地創造神話『乳海攪拌』では、シヴァが蛇神ナーガから奪回した財宝を管理したとされ、そのためクーベラ手には蛇神の天敵のマングースを持っています。
このマングースは財宝を口から吐き出し人々に富を与え服従させるとされています。『ラーマヤーナ』ではクベーラは財宝を生み出す力で一時期スリランカの王として人々を支配したとされ、そのためクベーラの乗り物は人間の男性です。
実際に古代インド遺跡のクーベラ像には男性と思われる人を踏みつける姿が多く残され、毘沙門天が邪鬼を踏みつけている姿に通じます。
毘沙門天の成立
仏教で毘沙門天は須弥山北方の守護神として登場します。仏教で須弥山をはじめとした三千大世界の宇宙観が形成されたのは大変古く、紀元前3世紀のアビダルマ仏教時代※1と言われています。須弥山という天界と仏陀の関係は『華厳経』など大乗仏教成立時の古い経典の中にもしばしば見られます。
『華厳経』は、後漢時代も中国で翻訳僧・支婁迦讖(しろうかせん)が経典の一部を漢訳し、以後も東晋時代に翻訳僧・仏陀跋陀羅(ぶっだばったら)が完訳するまで断続的に中国で紹介されます。そのため中国では毘沙門天の財宝神の性格より、北方を守護する方位神の性格を重視しました。
現在と同様に武闘神の毘沙門天を祀ったことが明確に分かる資料は、唐代の翻訳僧・不空が記した『北方毘沙門天随君護法儀軌(ほっぽうびしゃもんてんずいくんごほうぎき)』です。同書には
「天宝元年(742)に安西城(現在のトルファン)が吐蕃(とばん)軍※2に取り囲まれた時に城壁の北に毘沙門天が現れ、毘沙門天が持つ黄金の鼠(マングース)が敵軍の弓を断ち切り、数多の神兵が周囲から怒声を挙げ、その振動で山が崩れ吐蕃軍が壊滅した」と述べられています。
これを聞いた唐の玄宗皇帝は大いに悦び、諸国の城壁の西北の角に毘沙門天像を置き供養したと言われています。実際に唐朝では毘沙門天信仰が盛んで、軍旗に毘沙門天像を描いた「天王旗」を用いました。現在でも中国の毘沙門天像は甲冑姿で右手に旗を持ち、左手にマングースを携えます。
ただし『北方毘沙門天随君護法儀軌』には不空自身が登場しているため、現在は不空が玄宗皇帝の信任を得るために書いた偽経説が有力です。
※1アビダルマ仏教時代とは、原始仏教から上座部仏教や大乗仏教が分かれ、さらに20余りの部派に分裂した時代のこと。
※2 吐蕃はチベット族が建てた国。
毘沙門天と日本
毘沙門天と四天王寺
毘沙門天の存在は日本に仏教が伝来当初から知られていました。『日本書紀』には厩戸皇子(聖徳太子)が従軍の際に白膠木を切り取り素早く四天王像を作り、頭上に置いて戦勝祈願をし、傍らにいた蘇我馬子も敵に勝ったならば四天王のために寺を建てることを誓った話が記されています。
実際にこの戦争に勝利して建立したのが日本最古の寺院の一つで大阪府にある四天王寺です。以後多くの寺院で仏教の守護者として毘沙門天をはじめとした四天王像が祀られました。
守護神としての毘沙門天
四天王の中、毘沙門天だけが単独で祀られるようになったのは渡来僧の鑑真や、中国へ渡った最澄・空海といった留学僧が強く影響しています。毘沙門天の成立でも述べていますが、唐代は城壁の西北に町の守護神として毘沙門天像を祀る信仰が流行していました。
京都の北側にある鞍馬寺の縁起が記された『鞍馬蓋寺縁起』には
「鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)が夢に霊山があるとのお告げを受け鞍馬山を尋ねると、山中で鬼に襲われた。しかし突然木が倒れ鬼と共に鑑禎も押し倒されて気を失った。翌日目を覚ますと毘沙門天像が残されていた。そこで同地に寺を建てることを決めた」
と記されています。これは都市の北側に守護神として毘沙門天を祀る当時の中国の毘沙門天信仰が強く反映された逸話と言えます。
また現在京都の教王護国寺(東寺)に祀られている兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう、国宝)は唐より請来したものと言われ、伝承ではかつては平安京の正門に当たる羅城門の楼上に安置されていたと言われています。
このように武将の姿の毘沙門天が庶民に認知されると、戦勝祈願の守護神として単独で祀られるようになりました。
毘沙門天と上杉謙信
戦国時代になると、武将姿の毘沙門天は戦勝祈願の神として多くの戦国大名が信奉します。その代表格が「越後の龍」上杉謙信です。上杉謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと称し、軍旗には「毘」の字を用い、戦の前には必ず居城の春日山城の毘沙門堂で戦勝祈願を行った言われています。
毘沙門天と七福神
最澄が大黒天、毘沙門天、弁財天を合わせた三面大黒を台所で祀っていたことからも分かるように、3体の神仏を同時に祀る考えは平安時代に庶民の間で広がりました。
室町時代に中国の画題『竹林七賢図』に倣って七柱の神を一緒に祀る七福神信仰が生まれ、大黒天、恵比寿、弁財天、毘沙門天、布袋の五柱は当初から七福神の一員として定着します。
毘沙門天は七福神に採用されると武闘神として勝負運を高める以外に、厄除開運や本来のご利益だった福財増進の神の性格を取り戻します。
毘沙門天のご利益
『毘沙門天王功徳経』には毘沙門天を信奉すると十種の福徳が得られると説かれています。
①無限の福が得られる。②人々から敬愛される。③智慧が得られる。④寿命が延びる。⑤仲間も福が得られる。⑥戦いに勝つ。⑦良い田畑が得られる。⑧蚕が思い通りに育つ。⑨良い知識が得られる。⑩仏果や悟りを得られる。
毘沙門天の真言
唵 昧室囉摩拏野 娑嚩賀
毘沙門天が安置されている寺院
静岡県 願成就院 木造毘沙門天立像(国宝)
京都府 鞍馬寺 木造毘沙門天立像・木造吉祥天立像・木造善膩師童子立像(国宝)
京都府 教王護国寺 木造兜跋毘沙門天立像(国宝)
奈良県 法隆寺 木造毘沙門天立像(国宝)
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