大元帥明王 役割/仏像/由来/ご利益/寺院など詳しく解説

コラム

大元帥明王って、どんな仏様?

大元帥明王とは

大元帥明王は大乗仏教の密教で信奉される明王に属する尊格です。サンスクリット語ではアータヴァカ(Āṭavaka)と呼ばれ、阿吒婆拘、阿吒薄俱と音写されます。本来は「アータヴィ(の森)に住む者」という意味で、荒野神と漢訳されます。

仏典ではアータヴァカは夜叉の王とされていることから鬼神大将、荒野鬼神大将、無比力夜叉とも表記され、最終的に夜叉を統率する首領という意味で大元帥明王と呼ばれるようになります。

大元帥明王は夜叉が仏教に取り込まれた際に誕生した十六善神の一柱で、その中の毘沙門天が率いる八大夜叉大将の一尊とされています。また大元帥明王は鎮護国家や障魔降伏に絶大な力を発揮するとされ、多くの寺で秘仏扱いされています。

大元帥明王の仏像の見分け方

大元帥明王の仏像は一面六臂から八面十六臂まで様々なですが、基本的に怒髪の忿怒相で鬼神の形を執り、手には様々な武器を持ちます。『阿吒薄俱元帥大将上佛陀羅尼修行儀軌(あたばくげんすいたいしょうじょうぶつだらにしゅぎょうぎき)』によれば

「肌は青黒く、四面八臂。正面は仏の顔、左は虎の牙を生やした三眼の目は血走っている。右は神の顔であるが虎の牙を生やし、三眼の目は黒目で髪が牙まで垂れ下がっている。頭上に悪相の一面があり三眼で虎の場を生やし眼は血の色。また頭は赤龍の髷を結い、火炎がまとい、手には法輪、槍、羂索、斧、棍棒などの武器を持ち、合掌供養印を結ぶ」とされています。

大元帥明王の由来

アータヴァカの由来に関する物語はパーリ語で書かれた初期教経典に残されています。

「アータヴァカはアータヴィの森の奥に住む人を喰らう夜叉の王で、毘沙門天から森に来た人間を捉え食べても良いという許可を得ていました。ある時、アータヴィを治める王が森で狩りをしている時に運悪くアータヴァカに捉えられてしまいます。

王は命の代わりに王国で処刑した犯罪者の遺体をアータヴァカに提供する約束をします。ところがアータヴァカが犯罪者を食らい尽くし、次に生きた子供を要求してきます。アータヴィ国に住む子持ちの親たちは驚き子供らを連れ国外へ逃げ出し、残ったのは王の息子だけになってしました。

千里眼でこの事態を知った仏陀はアータヴァカの住処に向かい、彼から玉座を奪い取ります。怒ったアータカヴァは神通力や武器で仏陀を玉座か引きずり落そうとしますが悉く効果が無く、彼は泣く泣く仏陀に出ていくように懇願します。

その際、アータカヴァカは以前から疑問だった13の質問を仏陀に投げかけ、仏陀はそれに明快に答えます。仏陀が最後の質問に答えるとアータヴァカはスロータパンナ(悟りの第一段階)に至り、仏陀に帰依して智慧の王となりました。救出された王の息子は後に仏陀の最愛の弟子となります。」

と説いています。パーリ語仏典は紀元前3世紀半の第3回仏典結集までの話がまとめられており、少なくともこの頃までにアータヴァカが仏教に取り込まれたことが分かります。

大元帥明王の成立

初期仏教経典のアータヴァカは毘沙門天の部下で、仏教に改宗した夜叉の一人に過ぎませんでした。毘沙門天は明王より格下の存在です。毘沙門天より格下のアータヴァカが明王に格上げされたのは中国の唐の時代です。

アータヴァカについて説いた経典『阿吒薄俱元帥大将上佛陀羅尼修行儀軌』を南インド出身の翻訳僧・善無畏(ぜんむい、637~735)が漢訳し、アータヴァカを以下のように説明しています。

「釈迦の入滅の間際、ある長者が鬼神に誘惑されたため、釈迦は弟子の阿難に鬼神退散を命じた。ところが鬼神は森に逃げてしまった。その時、阿吒薄俱元帥大将と名乗る神が現れて八部衆を招集し、仏陀の守護を申し受けた。後に鬼神を招集する力があることから大元帥明王となった。」

この経典では阿吒薄俱元帥大将の像の作り方も記載され、明らかに明王の形をしています。善無畏は唐の玄宗皇帝に仕え、『金剛頂経典』や『大日経』など重要な密教経典を翻訳した高僧です。

この時代『阿吒薄俱元帥大将上佛陀羅尼修行儀軌』を元にした護国鎮護の修法が盛んで、都長安以外にこの修法を行うことは決して許されませんでした。

善無畏が中国に請来した密教を、弟子の不空がさらに深めます。不空の愛弟子に灌頂(かんじょう)を授かった文璨(ぶんさん)がおり、揚州(浙江省)の栖霊寺(鑑真を輩出した大明寺が改名した寺院)に着任したことで世間に大元帥明王修法が知られるようになりました。

大元帥明王と日本

大元帥明王は平安時代前期の小栗栖の僧で入唐八家の一人・常暁が請来したと言われています。常暁は空海の愛弟子として灌頂を授かり、承和5年(838年)密教を学びに唐に渡ります。しかし都長安に入城する許可を得られず、地方の高僧の元を巡り教えと請う遊学をしていました。

たまたま揚州の地で密教を修めた文璨と出会い、密教の奥義を授かります。この際「大元帥明王修法」も習得しています。常暁が帰国の際に持ち帰った文物をまとめた『常暁請来目録』の中にも、大元帥明王曼荼羅とそれぞれ形態の異なる3体の大元帥明王像の名が記されています。

常暁は承和6年(839年)に帰国。翌年山城国宇治の法林寺に大元帥明王像を安置し宮中で大元帥修法を行いました。これにより「大元帥明王修法」は空海の真言宗最高秘儀・後七日御修法(ごしちにちみしほ)に次ぐ扱いとなり、怨敵調伏や敵国粉砕といった国難打開の際に盛んに祈祷されました。

ただし、大元帥修法は天皇家が護国鎮護に用いる修法だったため、この修法の本尊の大元帥明王が世間に知られることはほとんどありませんでした。

大元帥明王のご利益

大元帥修法は国家鎮護の大法であり、敵に打ち勝ち、賊を抑え、雨を降らせ、天災が免れるとされます。

大元帥明王の真言

南無ナウボウ 多律多勃律婆羅勃律柘頡迷柘頡迷タリタボリバラボリシャキンメイシャキンメイ 怛羅散淡タラサンタン 鳴鹽毘オエンビ 莎訶ソワカ

大元帥明王が安置されている寺院

奈良県 秋篠寺  木造大元帥明王立像(国重要文化財)

富山県 慈光院  大元帥明王立像

福島県 田村神社 大元帥明王像

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