弥勒菩薩って、どんな仏様?
弥勒菩薩とは
弥勒菩薩は大乗仏教で信仰される菩薩に属する尊格です。サンスクリット語ではマイトレーヤ(Maitreya)、パーリ語ではメッティヤ、メッテヤ(名Metteyy)と呼ばれます。弥勒菩薩の弥勒はパーリ語の音写です。
他にも梅呾麗耶菩薩、末怛唎耶菩薩、迷底屦菩薩、弥帝礼菩薩とも音写されます。パーリ語での本来の意味は「慈しみ」で、経典により慈氏菩薩と漢訳されています。
弥勒菩薩の経典に『観弥勒菩薩上生兜率天経(弥勒上生経)』と『弥勒下生経』があります。
これらの経典で弥勒菩薩は仏陀(最高の悟りを開いた者)になることが約束された存在で、現在は兜率天(とそつてん)で修業をしており、釈迦の入滅後56億7万年後に世に現れ、釈迦牟尼と同じ足跡を辿り竜華樹の下で悟りを開き、最終的に衆生を救済する未来仏だと説いています。
弥勒菩薩はすでに仏陀になることが確定しているので、悟りを開いた者を意味する弥勒如来の名で呼ばれることもあります。
弥勒菩薩の仏像の見分け方
日本における弥勒菩薩の仏像は、飛鳥時代の作例は右手で頬杖をつき、右脚と左手を左ひざの上に置き、左足を地に着く半跏思惟(はんかしい)像で表現されます。
時代が下り平安時代や鎌倉時代になると半跏思惟像の弥勒菩薩像は作られなくなり、代わって両手で仏塔を携える菩薩形や如来形の坐像、あるいは手に水瓶を持つ立像で表現されます。
また弥勒菩薩は兜率天にいるため、眷属として四天王を従える場合があります。
弥勒菩薩を象徴する三昧耶形は蓮華の上の塔と水瓶です。
弥勒菩薩の由来
弥勒菩薩のサンスクリット語「マイトレーヤ」には「友情」という意味もあり、その名詞形が「友人」を意味するミトラです。この「ミトラ」が弥勒菩薩の由来です。このミトラと似た音を持つ神が古代イン地方で信仰されていた太陽神ミスラで、弥勒菩薩はこのミスラ神が由来とされています。
ミスラ神のミスラとは「契約」という意味で、弥勒菩薩が未来仏となることが約束された存在であることと関連しています。また仏教を保護したクシャーン朝の言語のバクトリア語ではミスラ神を「ミイロ」と発音し、弥勒の中国語「mile(ミラェ)」と音が似ています。
このミスラ神を崇拝するミスラ教はインドからギリシア・ローマまで広く伝播し、そこでは終末思想が展開されました。ミスラ神はその救世主という性格付けが行われています。これは末法の世に救世主として現れる弥勒菩薩の性格と酷似しています。
このミスラ神は古代インド神話にも取り入れられ、ヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』では太陽神の集団であるアーディティヤ神群で最高神の水神ヴァルナに次ぐ2番目の地位を与えられています。
このアーディティヤ神群の中には仏教で帝釈天と呼ばれる雷神インドラも含まれており、仏教がヒンドゥー教の神々を取り入れていく過程でミスラ神も弥勒菩薩として吸収したことが伺えます。
弥勒菩薩の成立
弥勒菩薩が未来仏となることは、紀元前4~西暦1世紀頃の仏教について書かてれいる『阿含経』の中に既に説かれ、釈迦と同時代の人と定義されています。
また初めて仏像が作られたガンダーラ仏でも、仏教の開祖の釈迦に次ぐ数の弥勒菩薩像が制作されています。ガンダーラ仏では弥勒菩薩はインドラ(帝釈天)と共に釈迦の脇侍として製作することが多く、また手に水瓶を持ち両脚を交差させて座る姿で表現されます。
このことからも弥勒菩薩が少なくとも紀元前1世紀頃には仏教の菩薩として信仰されていたことが分かります。
弥勒菩薩と中国
弥勒菩薩に関する経典は中国の後漢から三国時代に西域※にもたらされ、西秦(4~5世紀)時代に甘粛省炳霊(へいれい)寺の石窟に『弥勒上生経』と『弥勒下生経』に基づく弥勒菩薩の壁画や彫像作られています。
その形状はガンダーラ仏と同じく両脚を交差するものと、飛鳥時代の日本に弥勒菩薩像と同じく半跏思惟(はんかしい)像が混在しています。この半跏思惟像は『弥勒上生経』に基づくもので、兜率天にいる弥勒菩薩が下生を待つ姿とされています。
※中央アジアのタリム盆地のタクラマカン砂漠周辺に点在したオアシス都市国家の総称。
弥勒菩薩と日本
弥勒菩薩と仏教伝来
弥勒信仰は中国を経て4世紀頃には朝鮮半島まで広がります。この頃の朝鮮半島では『弥勒上生経』に基づく半跏思惟の弥勒菩薩像を盛んに制作していました。
特に日本との交易が盛んな百済では弥勒信仰が流行し、『朝鮮仏教通史』には584年に石仏の弥勒菩薩像を、603年に金銅仏の弥勒菩薩像を日本に送ったと記録されています。
この弥勒菩薩の金銅仏はやがて聖徳太子の臣下・泰川勝に贈られ、蜂岡寺(後の広隆寺)に安置して敬ったところ人々の願いを叶えたという逸話が残されています。
このような霊験談から飛鳥時代から奈良時代に掛けて朝鮮半島から数多くの弥勒菩薩の半跏思惟像が輸入され、また国内でも盛んに弥勒菩薩像が作られます。こうして貴族の間で弥勒菩薩が現在修行している兜率天に転生することを願う弥勒信仰が大変流行りました。
弥勒菩薩と末法思想
時代は下り平安時代末から鎌倉時代になると、武士が社会で台頭し争いごとが増え、さらに僧兵の出現で仏教界が退廃したため世間に末法思想が広がります。弥勒菩薩は末法の衆生を救済する仏なので、庶民の間で『弥勒下生経』に基づき弥勒菩薩の到来を願う弥勒信仰が流行しました。
弥勒菩薩は太陽神の側面も持つため、弥勒菩薩は東の海から船に乗って来るといった民間信仰が生まれます。弥勒菩薩の到来を祈願する弥勒踊りが太平洋を東に臨む関東から静岡にかけて流行しました。また平和な世の食に困らないので、五穀豊穣祈願に弥勒菩薩を祀ることも増えました。
弥勒菩薩と布袋様
日本では七福神の一人として知られる布袋様ですが、中国では弥勒菩薩の化身として多くの寺院で祀られています。
布袋は10世紀の明州(現在の浙江省寧波市)にいた実在の禅僧で本名は契此(かいし)といい、人の吉凶を言い当て、雪の中に裸で横になっても彼の体にだけ雪が積もらないといった不思議な力を持つ人物でした。
布袋が臨終の際に「弥勒真弥勒分身千百億、時時示時分時人自不識(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり、時時に時人に示すも時人は自ら識らず)」と辞世の句を残したため、人々の間で布袋は弥勒菩薩の化身だったという噂が広がりました。
1098年、宋の哲宗皇帝から「定応大師」と諡(おくりな)され、布袋臨終の寺・岳林寺に彼の姿を模した弥勒菩薩像が作られます。後年、宋の徽宗皇帝がこの寺に「崇寧」の扁額を贈ったことで天下に布袋の名が知れ渡り、江南地方を中心に布袋姿の弥勒菩薩像が盛んに作られました。
常に笑みを浮かべ、大きな腹をした布袋像は富貴を喜ぶ商人たちに特に愛され、布袋姿の弥勒菩薩像を祀る寺院には多くの寄進が集まりました。これにより全国の寺院で布袋像の弥勒菩薩が安置され、やがて弥勒菩薩像といえばこの布袋像を指すのが一般化しました。
弥勒菩薩のご利益
弥勒菩薩は七福神の布袋と習合し、福徳円満や富貴繁栄を叶えるとされています。
弥勒菩薩の真言
唵 毎怛隷夜耶 娑嚩賀
弥勒菩薩が安置されている主な寺院
京都府 広隆寺 木造弥勒菩薩半跏像(国宝)
奈良県 興福寺 木造弥勒菩薩坐像(国宝)
奈良県 東大寺 木造弥勒仏坐像(国宝)
和歌山県 慈尊院 木造弥勒菩薩坐像(国宝)
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