四天王 役割/仏像/由来/ご利益/寺院など詳しく解説

コラム

四天王って、どんな仏様?

四天王とは

四天王とは大乗仏教で信奉される天部に属する護法善神で、持国天、増長天、広目天、多聞天の総称です。帝釈天の部下で、仏教の世界観である須弥山の四方を守護する役割を担います。

四天王はそれぞれ守護する方位が定められており、東方は持国天、南方は増長天、西方は広目天、北方は多聞天が司ります。この中の多聞天は七福神の毘沙門天と同体で、四天王の時は多聞天、単独で祀られる時には毘沙門天と呼ばれます。

多聞天以外は単独で祀られることはほとんどなく、基本的に四柱一体の存在です。四天王の仏像は共に唐風の革甲冑をまとう武将神の姿で表現されます。

持国天とは

持国天のサンスクリット語はドゥリタラーシュトラ(Dhrta-rāstra)と呼び、音写では提頭頼吒、持梨哆阿囉哆、提多羅吒と表記されます。意味は「国を支える者」で、持国天、治国天、安民天、順怨天などと漢訳されます。

持国天は眷属として乾闥婆(けんだつば)や毘舎遮(びしゃしゃ)といった鬼神を配下とし、須弥山の東方にある東勝身洲(とうしょうしんしゅう)を守護します。

持国天の仏像の見分け方

『陀羅尼集経』巻十一の記載では持国天は天衣をまとい左手に慧刀、右手に宝慧珠を所持するとされます。

日本の持国天の仏像は『般若守護十六善神王形体』を基に作ることが多く、青肌で髪は紫の忿怒相、身に甲冑をまとい手に大宝慧刀を所持します。持国天を表す三昧耶形は刀。

中国の寺院の持国天の仏像は白い肌で甲冑をまとい、手に宝慧琵琶を持つ姿が一般的です。

 

持国天の由来

サンスクリット語のドゥリタラーシュトラとは、『マハーバーラタ』に登場するクル国を治めた盲目王の名が由来です。盲目王は怪力の持ち主でガンダーラ王国の女王ガーンダーリーと結婚し100人の王子を設けたとされます。

ある日、盲目王は賢者から彼の子の一人が将来国を亡ぼす原因になるので殺すように進言されます。しかし愛する子を殺せなかった盲目王はその子が原因でクルクシェトラでの戦に敗れ、王子たちは皆殺しにされます。戦後盲目王は森深くに隠居しますが、森林火災に遇い死んでしまいます。

持国天を示す提頭頼吒の名は『長阿含経』にあり、「東方に提頭頼吒大王がおり、大威徳がある。子供が九十一人おり、その一人がインドラ(帝釈天)で、他の子もみな強大な神通力を持っている」と記され、『マハーバーラタ』との関連性を伺い知ることができます。

増長天とは

増長天のサンスクリット語はヴィルーダカ(Virūdhaka)で、毘楼勒叉、毘嚕陀迦、毘流離天、毘留多天、鼻熘荼迦天などとも音写されます。本来は「発芽した穀物」や「増大する」という意味で、これから増長天と漢訳されました。

増長天は衆生の善根を増やし国土を守護する護法善神とされ、眷属として鳩槃荼(くばんだ)や薜茘多(へいれいた)といった餓鬼を八部衆としてを従え、須弥山の南方にある南瑠璃埵(みなみるりた)に住み、南贍部洲(なんせんぶしゅう)を守護します。

また増長天の持つ武器は煩悩を断つ智慧の象徴とされています。

増長天の仏像の見分け方

『陀羅尼集経』によれば増長天の姿は持国天と基本的に同じで、手に矛を根元から持つとされます。

一方『般若守護十六善神王形体』では肌は赤紫で髪の毛は紺色、顔は忿怒相で身に甲冑をまとい、片手は腰に、もう片手は金剛杵を持つとしています。

日本の増長天の仏像はこの経典が基本で、風の革甲冑をまとい右手を腰にあて、左手に矛を持ち、足元に餓鬼を踏みつける姿で表現されます。

増長天を象徴する三昧耶形は刀剣、矛など。

中国の寺院の増長天の仏像は肌が青色で手に慧剣を持つ姿が一般的です。

 

増長天の由来

増長天のサンスクリット語ヴィルーダカ、パーリ語ではヴィドゥーダバで、紀元前6~5世紀に古代インドで栄えたコーサラ国の王の名が由来とされています。『増一阿含経』では毘瑠璃王と表記され、以下のような伝承が記されています。

「毘瑠璃王はコーサラ国の波斯匿王(プラセーナジット)と釈迦族の間に生まれた王子であったが、若い頃に釈迦族から辱めを受け、王に即位するとすぐさま釈迦族を攻め滅ぼした。

この時、悟りを得ていた仏陀が毘瑠璃王を諫めるが、積年の怒りが収まらない毘瑠璃王は進軍を止めず、さらに実兄まで殺害してしまった。仏陀は七日後に王は死ぬだろうと予言を残し、その通り七日目に毘瑠璃王は暴風に遇い水死。阿鼻地獄に堕ちた」とされています。

広目天とは

広目天のサンスクリット語はヴィルーパークシャ(Virūpāksa)と呼び、毘留博叉、毘嚕博叉、毘楼婆叉、鼻熘波阿叉、髀路波呵迄叉などと音写されます。

ヴィルーパークシャの本来の意味は「醜い目」「不格好な目」で、これが「特殊な目」と解釈され「広く世界を見渡せる」という意味で広目天と漢訳されました。また仏典により悪眼天、丑目天、雑語主天、非好報天などと漢訳されます。

仏説では広目天は浄天眼を持ち、広く三千世界を見渡たし衆生を保護するとされ、須弥山の西方の白銀埵(はくぎんた)に住み、西牛貨洲(さいごけしゅう)を守護します。また広目天は眷属として諸竜王や富単那(ぶたんな)という悪霊を従えるとされます。

広目天の仏像の見分け方

『陀羅尼集経』によれば広目天の姿は持国天と似て、左手に矛、右手に赤い羂索を持つとされます。

一方『般若守護十六善神王形体』では広目天の体は赤く甲一面二臂、目は外に出て、頭に龍の帽子を被り、身に冑をまとい右手に龍、左手に塔を持つとされます。

日本の広目天の仏像は唐風の革甲冑をまとい、右手に羂索、左手に三鈷戟を持つ姿で表現されまることが多いの特徴です。

広目天を象徴する三昧耶形は三鈷戟、羂索です。

中国の広目天の仏像は肌が赤く身に甲冑をまとい、手に龍(あるいは赤い羂索)を持つ姿で表現さるのが一般的です。

 

広目天の由来

広目天のサンスクリット語であるヴィルーパークシャはヒンドゥー教の三大神の一柱シヴァ神の異名です。ヴィルーパークシャで呼ばれる時のシヴァ神び眼は「奇妙な目」の異名の通り三眼で、鼻の両脇と額にあるとされます。

またこのヴィルーパークシャの名は古代インド神話でアスラ族の種族名としても使用され、非常に古い概念だったと考えられます。ヴィルーパークシャの名は原始仏教経典『長阿含経』にも見られるため、広目天は仏教が成立した非常に早い段階で仏教に取り込まれた尊格だと分かります。

多聞天とは

多聞天のサンスクリット語はヴァイシュラヴァナ(Vaisravan)で、本来の意味は「ヴァイシュラヴァの息子」。多聞天と同体とされる毘沙門天はこのヴァイシュラヴァナの音写です。※毘沙門天についてはこちらを参照。

一方でサンスクリット語では「よく聞く者」という意味もあるため、四天王として扱われる時は広目天と対の概念とするため「多聞天」の漢訳が宛がわれました。

多聞天は眷属として夜叉や羅刹を従え、須弥山の北方にある水精埵の天敬城に住み、北倶盧洲(ほっくるしゅう)を守護します。

多聞天の仏像の見分け方

『陀羅尼集経』によれば多聞天の姿は持国天と似て、左手に矛を持ち、右手に仏塔を持つとされされています。

一方『般若守護十六善神王形体』では肌は青黒く髪の毛は紫色、赤い甲冑をまとい右手に金剛棓(バイ、杖の意味)、左手に仏舎利塔を持つとされます。

日本での多聞天の仏像は唐風の革甲冑をまとい、右手に矛、左手に仏塔を持ち(左右逆の場合もあり)、足元に邪鬼を踏みつける姿で表現されます。多聞天を象徴する三昧耶形は宝棒です。

中国の多聞天の仏像は肌は緑、身に甲冑をまとい身手に傘、左得に宝鼠を持ちます。

 

多聞天の由来

多聞天のサンスクリット語ヴァイシュラヴァナは、古代インド神話に出てくるヤクシャ族の王の名が由来で、別名はクーベラ。クーベラは財宝神でシヴァ神と友好関係にあり、『アタルヴァ・ヴェーダ』ではシヴァ神の財宝を守ったとされます。また他の神々と違い人間の男を乗り物としています。

※詳しくは下記の毘沙門天のリンクを参照

四天王の成立

仏教での四天王は須弥山を守る存在として重要視されています。この須弥山は古代インド神話で普遍的に存在するローカパーラ(世界を守る者)の思想を基にしています。

仏教の須弥山の世界観に近いローカパーラは『マハーバーラタ』に存在し、ここでは四天王の上司とされる帝釈天と梵天が存在し、北方の守護者として毘沙門天が配されています。

須弥山については4~5世紀にインドで成立した『阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)』に詳しく、恐らく4世紀頃には古代インドで信仰されていた神々や著名な王などを仏教に取り込み、四天王として整理したと考えられます。

四天王と中国

『阿毘達磨倶舎論』は西インドの翻訳僧・真諦(しんだい、499~569年)が漢訳し、さらに唐代に玄奘三蔵が再翻訳します。また四天王をはじめ天部の護法善神による国家鎮護を説いた『金光明経』は『阿毘達磨倶舎論』以前に中国に渡来しており、これらの経典は唐代に大変もてはやされました。

ただし唐代に鎮護国家の守護神として信奉されたのは多聞天(毘沙門天)だけで、それ以外の持国天、増長天、広目天はほとんど顧みられませんでした。(※詳しくは毘沙門天を参照)。

中国で四天信仰が隆盛するは明代で、神怪小説『封神演義』が庶民に大流行したのがきっかけです。ここでは仏教や道教の神々が大戦争を繰り広げ、仏教側の神の代表として四天王が大活躍します。

しかし『封神演義』は仏教を正確に理解して描かれた作品ではなく、作者のイメージだけが先行し仏典に説かれた四天王像と大きく異なります。

ただし、民間では『封神演義』の四天王像が一般化したため、中国の寺院では『封神演義』を基とした四天王像が祀られています。中国の寺院で四天王が持つ持物は元代のチベット僧・三蔵沙囉巴が漢訳した『薬師瑠璃光王七佛本願功徳経念誦儀軌供養法』の内容が基になっています。

四天王と日本

飛鳥時代に日本に仏教が伝来した時に、四天王の功徳で国家鎮護と五穀豊穣を叶えると説く『金光明経』が伝わっています。

『日本書記』には「蘇我馬子と物部守屋との争いで厩戸皇子(聖徳太子)が戦勝祈願に四天王像を作り祀ったことで蘇我馬子が勝利し、その感謝の印として四天王寺を建立した」と記されています。

このように古代日本では国家の守護神として四天王信仰が盛んで、奈良・平安時代を通じて寺院の本本尊を祀る須弥壇の守護神として四天王像を配置することが流行しました。これにより四天王を寺院の守護神とすることが日本全国の寺院で一般化。現在でも多くの寺院で四天王像が見られます。

四天王のご利益

『金光明最勝王経』四天王品によれば、四天王を信奉するとあらゆる戦いに勝利し、天災厄災が除かれ、土地を肥やし、財を増やし、寿命も増すとされています。

四天王の真言

持国天

オン 地隷多羅瑟吒囉囉囉チリタラシタラララ 鉢囉末駄那ハラハタナウ 莎嚩訶ソワカ

増長天

オン 尾嚕荼迦藥叉ビロガタヤキシャ 地跋多曳ジハタエイ 莎嚩訶ソワカ

広目天

オン 尾嚕博乞叉那伽ビロハキシャナカ 地跋多曳ジハタエイ 莎嚩訶ソワカ

多聞天

オン 昧室囉摩拏野マイシラマナヤ 莎嚩訶ソワカ

四天王が安置されている寺院

奈良県 東大寺  乾漆四天王立造(国宝)

奈良県 唐招提寺 木造四天王立像(国宝)

奈良県 法隆寺  木造四天王立像(国宝)

京都府 東寺   木造四天王立像(国宝)

京都府 浄瑠璃寺 木造四天王立造(国宝)

奈良県 興福寺  木造四天王立像(国宝)

同    乾漆四天王立像(国宝)

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