大黒天って、どんな仏様?
大黒天とは
大黒天は大乗仏教の密教で信奉される天部に属する護法善神です。サンスクリット語ではマハーカーラ(Mahākāla)と呼び、摩訶迦羅、莫訶哥羅、瑪哈嘎拉と音写されます。「偉大な暗黒」、或いは「偉大な時」という意味で、大黒、大時、大黒神、大黒天神などと漢訳されます。
大黒天は日本では七福神の一柱として笑みを浮かべる福の神として親しまれていますが、本来は青黒い肌をした忿怒相の尊格です。チベット密教では大日如来の化身とされ、大日如来が降魔調伏の時に忿怒相で現れた姿とされています。また病を治す医療の神、あるいは財神としての性格があります。
胎蔵界曼荼羅では大黒天は最外院北方に属し、自在天の化身として黒色の三面六臂の忿怒神の姿で表現されます。
大黒天の仏像の見分け方
仏教での大黒天の本来の姿は、顔は一面か三面、腕は二臂、四臂、六臂のいずれかで表現されます。眼は三眼で髪は逆立ち、腰に虎の皮を巻き、背に火炎をまといます。
また手には宝剣、三叉戟、棍棒、人血を満たした髑髏碗、髑髏念珠などを持ちます。大黒天を象徴する三昧耶形は剣です。
一方、日本の寺院や七福神で知られる大黒天像は顔に笑みを浮かべ、耳が大きな福耳で、頭に烏帽子を被り、手に打ち出の小槌と福袋を持ち、俵の上に立つ姿が一般的です。日本では仏典に描かれる大黒天の仏像はほとんどありません。
大黒天の由来
大黒天はヒンドゥー教の三大神の一柱、シヴァ神が由来です。大黒天を意味するサンスクリット語「マハーカーラ」はシヴァ神が破壊神の時の異名です。本来仏典で表現される大黒天の姿はシヴァ神の姿とほぼ同じです。
また大黒天は胎蔵界曼荼羅で自在天の化身とされますが、この自在天は仏教に取り込まれたシヴァ神の名前です。
大黒天の成立
インドでの大黒天信仰はすでにグプタ朝(330~550頃)に始まっており、当初はシヴァ神の破壊神という性格から軍神として大黒天を祀る廟が建てられました。
グプタ朝の劇作家カーリダーサの作品のでも、漆黒の肌をした三叉戟を持つ大黒天が描かれています。この頃制作されたインドの聖典の大黒天像と、現在中国やチベットで信奉される大黒天像はほぼ同じ姿です。
グプタ朝期に軍神として仏教に取り込まれた大黒天は、時代が下るとシヴァ神の別の面である豊穣や財産のご利益をもたらす財神として祀られ始めます。
唐の高宗時代(671年)にインドに渡った中国僧・義浄が記した『南海寄帰内法伝』には、インドや東南アジア諸国の寺院や庶民の厨房で、食料を満たす守護神として大黒天像が祀られていることが述べられています。
『南海寄帰内法伝』の内容が中国の民間に伝わると、8世紀頃に中国江南地方の寺院を中心にインド製の大黒天像を輸入し食堂に祀ることが大変流行しました。ただしこの期間は短く、中国国内でこの頃の大黒天像はほとんど残っていません。
大黒天と日本
三面大黒天と最澄
大黒天は密教の伝来と共に日本に伝わっています。日本で大黒天を最初に祀ったのは天台宗の開祖・最澄と言われています。最澄は入唐して江南の天台山で学び、ここで厨房に祀られた大黒天を見ていたと考えられ、インド製の三面六臂の大黒天だったと考えられます。
最澄は帰国後、仏教で財神とされる毘沙門天と弁財天を合体させた三面大黒を独自に制作し、比叡山延暦寺の厨房に守護神として祀ったとされます。この三面大黒天は念持仏として豊臣秀吉が持ち歩いていたことが知られ、現在でも秀吉の三面大黒天が彼の菩提寺・圓徳院に祀られています。
引用:三面出世大黒天について (hieizan.or.jp)
大黒天と神仏習合
現在では偽経とされる唐代に著された『嘉祥寺神愷記(かしょうじしんがいき)』※に記されている「大黒天神法」では、「黒い肌に頭に烏帽子、袴と狩衣を着て、右拳を腰に当て、左に鼠色の大袋を肩に背負う大黒天像を作り食堂に祀ると自然に富み栄える」と説います。
(一般に流布する「大袋に七宝が入っている」という記述は『嘉祥寺神愷記』にありません。)
日本の神道の神「大国主命(おおくにぬしのみこと)」「大国」が「だいこく」と読めるため、平安時代後期に大黒天と大国主命の混同が起こります。
実際に大国主命も因幡の白兎の説話で袋を持ち歩き、またスサノオに焼き殺されそうになった時にネズミに助けられた逸話も、大黒天が持つ「鼠」色の袋と関連付けられます。
これにより「大黒天神法」にある「烏帽子を被り狩衣と袴を着て大袋を背負った」大黒天が作られ、五穀豊穣もたらす財神として祀られ始めました。
さらに時代が下ると福の神と一目で分かるように顔はにこやかに、五穀豊穣の象徴の米俵に乗り、空いた右手に宝物を出す打ち出の小槌を持つ大黒天像が完成します。室町時代末期に七福神信仰が始まると、大黒天も七福神の一柱と取り込まれ現在に至ります。
※書名にある嘉祥寺は現在の浙江省紹興市にある古刹。隋唐時代には大乗仏教の三論宗の拠点として栄えています。
大黒天と日蓮宗
開祖の日蓮は『法華経』の精神で衆生救済を説き天台宗を開いた最澄を人生最上の師としていました。最澄は日本に大黒天信仰をもたらした人物であり、比叡山に学んだ日蓮も大黒天の功徳に触れていたと考えられます。
日蓮は根本経典の『法華経』に大黒天が登場しないにも関わらず、日蓮の手紙『大黒天神供養相承事(だいこくてんくようそうじょうのこと)』では伝教大師(最澄)と大黒天の所縁及び大黒天を毎日供養すると福徳が得られると述べています。
また、『真間釈迦仏御供養逐状』でも大黒天を供養すると世間から不幸が無くなったと綴っています。『大黒天神供養相承事』には既に「大黒天神法」に説かれた大黒天像に小槌を手に持たせた大黒天像が記述されています。
これにより日蓮宗の信徒の間で大黒天供養が一般化し、やがて現世ご利益をもたらす福の神の大黒天が庶民に浸透します。現在も日蓮宗の仏壇では本尊の十界曼荼羅と共に大黒天と鬼子母神をお祀りします。
大黒天のご利益
「大黒天神法」では他の経典に説かれた大黒天のご利益がまとめられています。主なご利益は戦闘神として敵から民を守り、戦に勝ち、厨房の神として蔵に食料を満たし、福の神として貧しい者に福徳を与え、家の守護神として陵墓を守るとされています。
大黒天の真言
唵 摩訶迦囉夜 娑嚩訶
大黒天を安置している寺院
大阪府 大黒寺 木造大黒天立像
東京都 浅草寺 米びつ大黒
千葉県 本光寺 金大黒天
京都府 圓徳院 三面大黒天
愛知県 喬正院 神将大黒天・三面大黒天
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