風神雷神の由来や歴史、ご利益など詳しく解説

コラム

風神雷神とは

風神と雷神は共に筋骨隆々で鬼の姿をした神様で、仏像や日本画などに好んで用いられる題材です。風神は大きな風袋から風雨をもたらすとされ、雷神は背負った連鼓を打ち鳴らし雷鳴と稲妻を起こすと考えられています。

日本では国宝に指定されている三十三間堂の風神雷神像や、同じく国宝で琳派の絵師・俵屋宗達が描いた『風神雷神図屏風』が有名で、大和絵や欄間のモチーフとして様々な場面に描かれています。

ところで、日本で仏像や大和絵に描かれる風神雷神はどこから来たのでしょうか。ここでは風神雷神の由来について解説します。

風神の歴史

風神は古代インドの神様が由来

風神はインド神話の風の神ヴァーユが由来です。古代インドの神話が収められた『リグ・ヴェーダ』では、ヴァーユは世界を作った巨人プルフャの生気から生まれたとされ、雷の神のインドラと共に天・空・地の三界の中、天を治める神だったとされています。

インドでヒンドゥー教が成立し、シヴァ神やヴィシヌ神が人気になると神としての地位が低下し、インドラと共に世界を守るローカパーラの十二神の一柱として北西を守る方位神となりました。

仏教の風天が風神

このローカパーラの十二神は仏教で護法善神の十二天として取り込まれ、ヴァーユは風天に、インドラは帝釈天となります。

仏教に取り込まれた風天が中国に渡ると、サンスクリット語のヴァーユは縛庾、縛臾、婆庾、伐由と音写され、ヴァーユの性格から風天、風神、風大神と漢訳されました。

風天は胎蔵界曼荼羅の外金剛院西北の済に描かれます。その姿は白い髯を生やし、肌は赤黒く、頭に冠を頂き、甲冑を着て右手に旗を持ち、左手は腰に据えた姿で表現されます。眷属として夜叉集や二柱の天女を侍らこともあります。日本の風天とは似ても似つかない姿です。

風天の真言

オン 嚩耶吠バヤベイ 娑嚩訶ソワカ

日本の風神の姿はガンダーラ由来

風神が大きな風袋を持つ姿は、インドのガンダーラ地方の仏像が由来です。インドの風の神ヴァーユは比較的早くから仏教に取り込まれています。最初の仏像とされるガンダーラ仏はガンダーラ地方に移住したギリシャ人が制作しています。

ガンダーラ仏の中には明らかにギリシャ神話をモデルとした仏像表現が多く、その中にギリシャ神話の西風の神西風神ゼファーをモチーフとしたとみられる風を蓄え帆のようにして使った風天と思わしき男性像があります。

この帆のように布で風を受ける風天の姿はシルクロード上で仏教を信仰したオアシス国家の石窟寺院の壁画に度々見られ、そこではインド風の精霊の姿に置き換わっています。

雷神の歴史

風神がインドのヴァーユが由来だと、雷神は同列に扱われたインドラが由来と思わる方も多いと思います。しかしインドラは仏教では帝釈天なので風神と一緒に描かれる雷神ではありません。

雷神は中国神話の雷公が由来

日本の雷神は中国の古代神話に登場する雷の神・雷公が由来です。雷公は頭が人で体は龍、腹を太古のように叩くと雷鳴と稲妻を出すと考えられていました。雷公は漢代に成立し中国の古代神話を集めた地理書『山海経』に収録されています。

また漢代に王充が著した百科事典『論衡』雷虚編には「画工が雷の絵を描く、連なる様は連鼓のようである。またある画工は力士の姿を描いている。彼が言うには雷公だという。左手に連鼓を持ち右手に木槌を持っている。もし叩けば雷鳴が起こり、連鼓は続けざまに打つことを意味している」とあります。

連鼓とは雷神が背負っている円状に太鼓を連ねた楽器の事です。このことからすでに古代に雷公は連鼓で雷鳴を奏で、雷の振動を連鼓の姿で表現していたことがうかがえます。

後年、梁の簡文帝(503~551)の詩『霹靂引』にも雷の音を連鼓で表現しており、雷イコール連鼓のイメージはこの頃には広く庶民にまで定着していたと考えられます。

風神と雷神を一緒に描いたのは中国

風神と雷神を一緒に描くようになったのは中国が発祥です。

中国では仏教の風天とは別に、古代神話に風伯と呼ばれる風の神がいました。ただし風伯は戦国時代の詩集『楚辞』などで鳥や翼をもった四つ脚の動物で表現されていました。風伯は秦漢代に道教に吸収され白髪の老人に擬人化されます。やがて鳥のくちばしをもった人の姿で表現されるようになりました。

暴風雨と雷は一緒に起こる自然現象なので、前漢時代編纂の『風俗通義』で風伯と雷公が一緒に表現されています。

日本の風神雷神の原型はシルクロード由来

漢代から北魏(386~534年)時代にかけて、王侯貴族の墓の壁面に魔除け目的に中国の神仙世界を描くこと有効しました。一方で北魏は北方民族が建てた国で、仏教を篤く信仰していました。

シルクロードの中継点であり仏教壁画で有名な敦煌の莫高窟には、弥勒菩薩が兜率天で修業している世界を表現しているとされ6世紀頃制作と推定される第249石窟があります。その壁画には仏教の仏以外に、西王母や鳳車など中国神仙世界の神や畏獣の姿も描かれています。

弥勒菩薩の仏像の背面の天井画に、仏典で須弥山より大きいとされる阿修羅が両手で太陽と月を持ち、その左右に日本と同様に風袋を持った風神と、連鼓を背にバチで叩く雷神の姿が描かれています。この頃の莫高窟の壁画は中国の画工も携わっており、中国文化の影響が色濃く反映されています。

仏典では日食や月食は阿修羅が手で月と太陽を掴むからだと説かれており、大変不吉なことでした。また雷を伴う暴風雨も当時の人々にとっては厄災であり、阿修羅と一緒に天空に描く神仏の一つとして中国の画工が風神と雷神を選らんだことは想像に難くありません。

そのため風神は当時のシルクロードのオワシス都市で描かれていた風天を、雷神は中国の雷公をモチーフにしたと考えられます。

日本の風神雷神は千手観音と共に渡来

この図案をモデルにしたと考えられる風神と雷神は、平安時代に中国から日本に伝来した千手観音とその眷属である二十八部衆が描かれた仏画に描かれています。千手観音は6世紀頃に敦煌を含む西域で誕生した観音菩薩が由来と考えられています。

敦煌では布に描く仏画も数多く制作されていました。そのため敦煌で描かれた千手観音菩薩の仏画が中国の唐の都・長安に渡り、そこで再び中国風に描き直され日本に渡来したと考えられます。

風神雷神と三十三間堂

国宝にも指定されている京都三十三間堂(正式名、蓮華王院本堂)は大仏師湛慶が制作した千手観音坐像を中心に1001体の千手観音像と、その眷属である二十八部衆、そして有名な風神雷神像が安置されている寺院です。

この風神雷神像は湛派の仏師により同じ眷属の二十八部衆より後に制作されたと推定され、現存する風神雷神像の中では最古のとされています。基本的にこの風神雷神像が、後に日本の大和絵や彫像の基本となります。

天神信仰と風神雷神

中国から伝来した風神雷神とは別に、日本でも古くから神道で風神と雷神が信奉されていました。

神道の風神はイザナギとイザナミの間に生まれたシナツヒコが風の神で、元寇の時に神風を起こしたとされています。一方で神道の雷神は黄泉の国に落ちたイザナミの躯(むくろ)から八柱の雷神が生まれとされ、大変恐ろしい神と考えられていました。

平安時代に謀略により不遇をかこった菅原道真の死後、宮廷で謎の死を遂げる者が増え、さらに天皇の御所の清涼殿に雷が落ち火災で多数の死者が出たことから、人々の間で道真は死して天神(雷の神で、イザナミから生まれた火雷神と一緒)になったと信じられました。

鎌倉時代から室町時代にかけて菅原道真が天神になった由来を描いた『天神縁起』が盛んに作られ、そこには連鼓を背負った赤い火雷神が描かれています。

風神雷神と琳派

江戸時代初期に琳派の祖とされる俵屋宗達が描いた国宝『風神雷神図屏風』は三十三間堂の風神雷神像がモデルだったと言われています。この『風神雷神図屏風』では金地の屏風の両端に笑みを浮かべた風神と雷神がユーモラスに躍動する姿が描かれています。

従来大和絵で描かれていた雷神は怒りを表す赤い体でしたが、俵屋宗達は金屏風の金を活かすためにあえて白い体に変えています。ただしこの屏風は世に出ることなく建仁寺の末寺妙光寺に長らくしまわれていました。

俵屋宗達没後70年して、宗達に私淑していた尾形光琳が妙光寺で『風神雷神図屏風』を再発見し、忠実な模写を残しています。さらに尾形光琳没後100年して光琳に私淑していた酒井抱一が、江戸の一橋家が所蔵していた光琳の『風神雷神図屏風』を発見。三度『風神雷神図』が模写されます。

琳派を代表する俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一の3名が描いた風神雷神の姿は以後の絵師に大きな影響を与え、狩野派をはじめとした江戸時代の絵師たちも競って俵屋宗達風の風神雷神図を描くようになりました。

こうして庶民にも風神雷神が広く知れ渡り、神社仏閣の装飾や諸工芸のデザインに宗達様式の風神雷神が採用されるようになりました。

風神雷神のご利益

風神雷神は風雨を操る力から自然災害を防ぎ、五穀豊穣をもたらすご利益があります。また大風や稲妻が邪気を追い払い神仏や善良な人々を守護するとされています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました