仏像の歴史 仏像誕生から近代日本の仏像まで

コラム

仏像の誕生から近代日本の仏像まで歴史を追いながら解説

原始仏教に仏像は存在しない

法輪

当初法輪が崇拝の対象とされていたことを示すレリーフ

現在、仏教の寺院や仏壇にはご本尊である仏像が安置され、信仰の対象になっています。ところが仏教の開祖である釈迦が入滅(釈迦が亡くなること)後、弟子たち崇拝の対象として釈迦の像を作りませんでした。

弟子たちの間では釈迦は人を超越した存在とされました。そのため人をかたどった像をつくることは憚(はばか)れたのです。その代わりに、釈迦が教えを説いた場所の菩提樹や台座、或いは釈迦の足跡を意味する仏足石、法輪などが崇拝の対象となりました。

仏像を初めて作ったのは古代ギリシャ人

ガンダーラ仏

実は仏像が最初に作られたのは仏教発祥の地・インドではなく、お隣のパキスタンのガンダーラ地方。しかも製作したのはギリシャ人です。

紀元前4世紀まで、ガンダーラ地方はペルシア人のアケメネス朝の支配下でした。紀元前330年、ギリシャのマケドニア国の王・アレキサンドロス3世(アレクサンダー大王)の大遠征でアケメネス朝が滅ぶと、この地にギリシャ人が移り住み小さな都市国家をいくつも建設しました。

しかし間もなくインドのマウリヤ朝が進出しガンダーラ地方を支配下に治めると、ギリシャ人もマウリヤ朝に取り込まれました。マウリヤ朝のアショーカ王は熱心な仏教信者でした。

『ミロのビーナス』からも分かるように古代ギリシャ人は高い彫刻技術を持ち、自分たちの崇拝する神の姿を写実的に彫刻し崇拝する習慣がありました。彼らはアショーカ王のために仏教の開祖である釈迦や弟子たちの姿の石像を作り始めました。これが世に名高いガンダーラ仏です。

ガンダーラ仏は顔の堀もヨーロッパ人のように深く、ギリシャア彫刻と同様に非常に写実的です。また仏陀が人とは違うことを示すため、光背を付ける習慣もこの頃すでに始まっています。

古代インドでは石仏製作が隆盛

石佛

インド、エローラ石窟群の石仏

ガンダーラ地方が次に北インドで興ったクシャーナ朝の支配下に入ると、この地で始まった石仏製作が次第にインド内陸まで伝播します。

クシャーナ朝のカニシカ王も仏教に帰依し、各地に仏教の石窟寺院を作ります。そして崇拝の対象として石窟内に石仏を数多く作りました。ギリシャ彫刻風の石仏も徐々にインド風に変わっていきます。」

シルクロードを経て中国でも石仏を製作

雲崗の石仏群

インドで生まれた仏教はやがてシルクロードの貿易を通じ、漢の時代には中国まで到達します。三国時代になると中国からもインドへ留学する僧侶が現れ、インドの高僧が中国の朝廷に招かれるなど交流が始まります。

中国領内でも4世紀に敦煌の莫高窟、5世紀に雲崗石窟、龍門石窟などで石像が作られました。敦煌や雲崗の石窟ではインド風の顔かたちが色濃く残っています。

龍門石窟の毘盧遮那仏と石仏群

北魏時代から唐代に渡り作られた世界遺産の龍門石窟では、中国風の色彩がさらに濃くなります。龍門に残る巨大な毘盧遮那仏は唐の女帝・則天武后の生前の姿を模した仏像で、そこに居並ぶ地蔵菩薩や観音像、天部の武将像の姿ももはや中国人の出で立ちです。

また仏像の顔は中国で「福相」と呼ばれる縁起が良い顔に変えられます。つまり「顔がふくよか」で「額が広く」、「両耳が肩あたりまで垂れ」、「手が膝まで付く」というのが古代中国で将来貴人として出世する人の風貌。これらの表現は日本の仏像にも多く採用されています。

金属、漆、木などの素材で仏像を製作

当初、中国でも佛像は石像が中心でしたが、製作に時間がかかり運搬も多大な労力が必要です。中国は古代から金属の鋳造(主に青銅)、乾漆※、木工などで優れた技術があり、これらの素材を用いて仏像が作られ始めます。

またこれらの素材は大量に生産が可能で、しかも石よりも精緻にリアルに仏像が作れます。これにより一般庶民の間にも仏教が広まる契機になります。

※乾漆は布や紙で原型を作り漆で固めた後、漆と木粉を混ぜたもので細かな造形を加え塑像を作る技法。

日本の仏教伝来と金銅仏

日本に仏教が伝来したのは『日本書紀』によると欽明天皇13年、百済の聖王より釈迦の金銅仏と経典が献上されたのが最初とされます。

金銅仏とは蝋型鋳造で作られた青銅製の仏像です。青銅というと青錆に覆われた銅鐸などを思い浮かべますが、鋳造された直後は黄金色に輝いています。多くの仏典で「仏の身体は黄金に光り輝いている」とあるので、当時の中国や朝鮮でも仏像製作は金銅仏が主流です。

金銅仏は金属製なので壊れにくく携帯性に優れ、中国や朝鮮などで当時御守り代わりに盛んに製作されていました。仏教伝来以前、日本の古代神道には偶像崇拝の習慣はなく、しかも美しい造形で光り輝く仏像は崇敬の対象以外に鑑賞や愛玩の対象にもなりました。

弥勒菩薩の金銅仏

弥勒菩薩の金銅仏

エキゾチックな飛鳥時代の仏像

飛鳥時代に本格的に支配階級に仏教が広がると、仏像製作のために中国系の渡来人・止利仏師が招かれます。彼らは随の時代に中国で流行していた仏像様式を寺院に建立します。その多くは銅製の鋳造仏です。

当時の中国の仏像はシルクロード経由で入ってきた断片的な知識をもとに製作されたもので、決まった様式は確立していません。仏像の衣装も当時の中国の官衣の様式で、衣を何枚も厚着しています。また顔や姿も東洋人というより、むしろ中央アジア人に近くどことなくエキゾチックな感じです。

また日本は木が豊富にあるため、この頃から木造の仏像作りも始まっています。ただその素材は奈良地方に多くある檜ではなく、楠が用いられています。『日本書紀』の記述に神道の神スサノオの命令に「ヒノキは神殿に使う」とあるで、仏教の仏像へは檜の使用は憚られたと思われます。

仏像の原型が成立した白鳳時代

白鳳時代は大陸の唐から文物を輸入し、日本が本格的な国家運営を開始した時代です。

これより少し前、『西遊記』で知られる玄奘三蔵がインドから本格的な仏教を持ち帰ります。玄奘三蔵の指導の下、仏教寺院の建築や仏典の翻訳事業が行われ、またインドから持ち帰った仏像を元に中国人の顔かたちに近づけた仏像製作が行われます。

奈良薬師寺に現存する薬師三尊像などは当時の中国様式の典型的な作風で、顔はふっくらとし目は切れ長、耳が長く垂れ、手は膝まで届くほど長いといった中国の「福相」で表現されています。また仏像の衣装や装飾も、白鳳時代の仏像と異なりインド風に直されます。

私たちが仏像として思い浮かべる典型的な形は、ほぼこの時代に成立した仏像です。

天平時代の大規模仏像製作

東大寺の毘盧遮那仏

聖武天皇の時代、日本で天然痘が大流行しました。聖武天皇は仏教の力で恐るべき天然痘から日本を救おうと考え、仏教に深く帰依します。そして同じく仏教に帰依した唐の女帝・則天武后が中国全土に仏寺を建立したのに倣い、日本全国に国分寺建立を計画します。

聖武天皇は国分寺に安置する仏像製作のために、東大寺内に官営の造仏所を設置。さらに則天武后が龍門の石窟に巨大な毘盧遮那仏を同様に、東大寺内に巨大な鋳造製の毘盧遮那仏を7年の歳月を掛け完成させます。

また聖武天皇(上皇)の晩年に、唐の高僧・鑑真和上が中国より渡来。当時最新の中国の仏像様式や乾漆による仏像製作技術を伝えると、日本の仏像製作技術が飛躍的に向上しより人間らしくリアルで迫力ある表現が実現します。

乾漆で制作された国宝『唐招提寺鑑真像』、東大寺の『四天王像』などの表情や動きは、本物の人間のようにリアリティに溢れています。しかし漆は高価な漆が大量に必要だっため、乾漆による仏像製作は次第に日本では廃れていきます。

密教伝来と平安時代の仏像

不動明王

平安時代に作られた不動明王像

奈良時代に仏教伝播のため全国各地に寺院が建てられましたが、仏教自体は支配者層のもので一般庶民には縁遠いものでした。貴族たちの間では唐風な文化がもてはやされ、仏像を安置する寺院の本堂も仏教世界を今の世に可視化するため、貴族が挙って寄進し大変豪華なものでした。

一方、中国ではチベットで生まれた密教が唐の都に伝えられ隆盛を極めます。最澄・空海らは留学僧として中国に渡り当時最新の仏教である密教を学び、帰国後それぞれ天台宗と真言宗を開きます。

特に空海は密教と共に、中国の最新の土木技術や医学を習得して帰国します。空海は庶民を仏教に帰依させため、その技術を使う際に密教の加持祈祷を行い、その効果があたかも仏の力であるかのように演出して見せます。もちろん科学技術を知らない当時の日本人に、それこそ奇跡に見えました。

こうして空海が全国行脚し般庶民の間に仏教が広がると、民間でも仏像製作が盛んになります。そして、唐風から日本風の、穏やかな仏像が展開されます。唐風のスマートで手が長かった仏像も、当時の日本人に近い近い浅くのっぺりとし顔の、ずんぐりむっくりとした風采の仏像が増えます。

武士の台頭と慶派の仏像の誕生

平安末期になると武士階級が台頭し、唐風尊ぶ平安貴族と対抗するように独自の文化を構築する動きが始まります。武士たちは中国の宋代中国で始まった質実剛健な仏教の一派・禅宗を精神的なバックボーンに据え、その風俗や文化を積極的に取り入れます。

仏像彫刻の世界では定朝のように天平時代の唐風の彫刻に回帰するものが現れ、改めて精緻な仏像製作が試みられます。定朝は当時の平安貴族の好みに合わせ、繊細で穏やか、肉づきも浅い仏像を製作し、貴族の間で大変もてはやされました。

この定朝の系統中に慶派の祖となる康慶がおり、彼は仏像の表情や衣装の襞の表現などよりリアリティを追求する彫刻を展開しました。この康慶の子とされるのが、後に鎌倉仏師の代表的な存在となる運慶です。

当時慶派を束ねていたのが、奈良仏師の正統を継ぐ成朝です。成朝は鎌倉幕府の招きに応じ、それに呼応するように運慶らの慶派も鎌倉で仏像製作を開始します。

鎌倉時代の運慶もはじめは平安貴族好みの穏やかな仏像を製作しましたが、東国武士の気風に触れると東大寺仁王像に代表される男性的で筋骨隆々とした力強い仏像を展開しました。また骨格表現など実際に人間を元に良く研究され、表情や動きは平安期の仏像より自然体です。

運慶が展開した仏像は後の日本の仏像に多大な影響を与え、その人間的な対象の捉え方は「日本のルネサンス」と例えられます。

この後も快慶、快慶など慶派の表現法は後の仏師たちに継承され、傍流だった慶派は長く日本の仏像製作の本流となりました。そして江戸時代が終わるまで、仏師の仏像製作に大きな変革は起こりませんでした。

円空仏と木喰仏の登場

円空仏

江戸時代、寺院や土地の有力者に依頼されて仏像を製作する職業としての仏師以外に、仏教修行の一環として仏像を彫る僧侶が現れます。それが円空と木喰です。

円空の出身地は諸説ありますが、出生は江戸時代初期寛永9年(1632年)とされています。円空は出家後、北は北海道、南は九州福岡まで全国各地を旅し、延べ12万体の仏像を彫って人々に分け与えたと言われています。実際に現存する円空作の仏像は5000体以上にものぼります。

円空の仏像は寺院に安置するな精緻なものではありません。一刀彫と呼ばれるノミ1本で荒彫りし、彫刻刀で簡素に仕上げる野趣に溢れたスタイルで、ノミで彫った後が荒々しく残り、表情は彫刻刀で線を入れただけです。

しかし円空仏の表情はみな微笑んで見え、観る者に親しみを感じさせます。これは人々に気軽に仏様に触れ、その慈悲を感じて欲しいという円空の思いが込められているからです。

木喰は円空から約1世紀後の出家僧で、出生は享保3年(1718年)の甲斐国。木喰が弟子の木食白道廻国区修行を始めたのは56歳の頃で、その4年後北海道に渡ります。そして道南五大霊場の一つ太田権現神社でおびただしい数の仏像を見たことが弟子手記『木食白導一代記』の記録に残されています。

この仏像こそ円空仏です。木喰は触発されたかのように、以後北は北海道から南は九州鹿児島まで37年間も諸国を巡りながら仏像を彫り続けました。その木喰仏は各地に残っており、現在確認されているだけでも1000体以上に及びます。

木喰の仏像は円空と同様に従来の仏像とは異なる簡素なデザインで、どの仏も円空仏同様に柔和な表情を浮かべています。しかも規則に囚われず自由な発想で仏像が形作られています。一方で木喰仏は円空仏とは異なり表情の彫りは丁寧で、表面も滑らかに仕上げられています。

一介の僧侶が作ったに過ぎない円空仏や木喰仏は、彼ら亡き後直ぐに庶民から忘れ去られます。大正時代、民芸運動の推進者・柳宗悦が円空仏や木喰仏を再発見すると、芸術品として高い評価を与えました。これらの円空仏や木喰仏の素朴な木彫りの仏像は、後の民芸作家に多大な影響を与えました。

高村光雲と仏像の近代化

鎌倉時代に定朝やその傍流の慶派らにより仏像の形式が定型化すると、幕末まで寺院などに納める仏像に大きな変化は起きませんでした。仏像製作も職人化され、師の仕事を弟子がそのまま継承するスタイルが定着します。

しかし明治維新で天皇を中心とした国家形成が始まると、神仏分離の一環から全国で廃仏毀釈運動が起こります。これが原因で、多くの仏師が廃業に追い込まれます。高村光雲もその一人で、仏師として高い技量を持ちながらその日の食事にも困る生活に陥ります。

高村光雲は改めて西洋美術を学び、西洋の写実主義を自身の木彫り製作に取り入れました。その代表作が明治以降の木彫で唯一の国宝に指定された『老猿』です。この作品はシカゴ万博に出品され優秀賞を受賞。工芸品だった日本の木彫りを、世界に通じる美術品にまで高めることに成功しました。

高村光雲はその功績により明治23年、明治政府より彫刻家として初めて帝室技芸員(現在の人間国宝に相当)に任命されています。

高村光雲は西洋写実主義を自身の仏像製作にも採用します。肉感や法衣、あるいは動きの表現など西洋的な雰囲気を持つ『聖観音菩薩像』や『慈母観音菩薩像』など次々に発表し、大変な人気を博しました。こうして日本の仏像も信仰の対象以外に、美術鑑賞品という新たな側面が生まれます。

北村西望による美術品の仏像製作

北村西望の聖観音菩薩

北村西望の聖観音菩薩立像

北村西望は日本の近代美術史を代表する彫刻家、塑像家です。北村西望は東京美術学校在学中に文展で入賞を果たすなど、若くして美術界で才能が認められていました。彼は在学中にロダンなど当時の西洋近代彫刻の潮流をいち早く作品に採用し、彼の躍動感ある塑像は文展で常に話題になりました。

一方で北村西望は浄土宗の熱心な信者で、趣味として塑像で仏像製作を行っていました。当時の仏像は信仰の対象として木彫りが主流で、粘土で原型を作り金属鋳造を行う塑像の仏像は美術展の評価の対象外でした。

第二次世界大戦後、憲法で表現の自由が保障されます。北村西望は仏像を作品制作の柱の一つに置き、日展に発表し続けます。

また全国各地から高名な北村西望の下に、慰霊のための公共の仏像製作が舞い込みます。その慰霊碑の代表作が、長崎の『平和祈念像』です。また自身も原爆が落ちた広島市に『聖観音菩薩像』を寄贈するなど、宗教と平和をテーマにした作品を102歳の天寿を全うするまで制作し続けました。

北村西望の仏像は従来の端正な仏像とは一線を画し、塑像の原型製作で残る手練りの跡がそのまま残り、決して仏の外見的な美しさだけを表現するものではありません。仏の持つ内面的な力強さと御仏の慈悲深さを仏像から表現したかったのです。

こうして北村西望により、仏像は信仰の対象から美術表現の一分野として新たな1ページが開かれたのです。

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