金剛力士って、どんな仏様?
金剛力士とは
金剛力士は大乗仏教で信奉される天部に属する護法善神です。
サンスクリット語ではヴァジュラパーニ(Vajrapāṇi)と呼び、伐折羅陀羅、娑闍羅波尼里卑と音写されます。サンスクリット語でヴァジュラは古代インドの武器の「金剛杵」、パーニは「持つ者」という意味から、金剛力士、持金剛、金剛持、金剛手と漢訳されました。
金剛力士は一般に二体一対の仁王(本来は二王)として知られます。一方で金剛力士単体の尊格も存在し、この時は執金剛神(しゅこんごうしん)と呼ばれます。
金剛力士はもともと須弥山の頂上・欲界に住む夜叉に属する鬼神で、帝釈天が住む宮殿の門番でした。しかし仏陀に遇い帰依して執金剛神となり、仏陀の守護神となったとされます。『俱舎論』では宇宙に数多ある妙高(須弥山)の頂きに住む諸天を守護者で、諸天の左右に侍ると説いています。
これにより寺院の門の左右に金剛力士を安置するようになったとされています。
金剛力士の仏像の見分け方
金剛力士の仏像は筋骨隆々で上半身裸の男性神の姿で、口を開けた阿形像と口を閉じた吽形像の二体一対で表現されます。阿形は怒りの発露、吽形は怒りを内在させた姿とされます。また「阿吽」は仏教の真言で「宇宙の始まりから終わりまで」を意味していると言われています。
一方で、執金剛神の仏像は唐風の革甲冑を着た武将神の姿で表現されます。
金剛力士の由来
金剛力士の由来はギリシャ神話のヘラクレスとされています。仏教史上初の仏像は紀元前50~紀元75年頃に制作されたガンダーラ仏で、当時ガンダーラ地方に移住していたギリシャ人たちが製作していました。
ガンダーラ仏には仏教の開祖の釈迦と共に、当時ガンダーラ地方で崇拝された神々やギリシャ神話の神々を一緒に彫刻する例が数多く存在します。大英博物館に収蔵品のガンダーラ仏のレリーフの中には古代ギリシャ彫刻でヘラクレスとして表現される、筋骨隆々で下半身も裸、手に棍棒を持ちあごに豊かな髯をたくわえる男性像が釈迦の脇侍とし描かれるているものが存在しています。

大映博物館所蔵品のイラスト、右がヘラクレス
釈迦の入滅について説いた『般若経』では、入滅した釈迦を荼毘に付す時に力士が棺を運んだとされています。また『長阿含経』では力士(サンスクリット語でマッラ)とは末羅(マッラ族の意味)であると説いています。
「マッラ」はサンスクリット語で「男」と「強大な種族」の意味があり、ギリシャ人にとって「強大な男」であるヘラクレスを元に力士像を作り上げたと考えられます。
金剛力士の成立
金剛力士の原型はヘラクレスなので、もともと単独尊だったと考えられます。日本では阿形を那羅延(ならえん)金剛、吽形をと密迹(みっしゃく)金剛と区別して呼ぶ場合があり、これが単独尊だった金剛力士がニ尊に分かれた手掛かりです。。
大乗仏教中期の経典『大宝積経』密跡金剛力士会では「法意という王子が成仏した兄を守護するために金剛力士となった。その時の名が密跡だったため自ら密跡金剛力士と称した。(この金剛力士は)或いは那羅延である」と記述されています。
那羅延はヒンドゥー教の三大神の一柱、ヴィシュヌ神の別名の音写で、元々密迹金剛力士と那羅延金剛力士は同体だったことを示唆しています。
同時期に作られた『大日経』真言蔵品では「門の両脇に守護神として右弼金剛、左輔密迹の金剛神を置く」とされ、「右弼は那羅延天、左輔は密跡金剛である」とここでは別々の神と見なしています。
さらに『大日経』密印品でも「門の両脇に夜叉を置くと神通力が得られる」と述べられています。以上のように単独尊だった金剛力士は、中期密教が成立した7~8世紀頃に二体一対の尊格に置き換わったと推定できます。

中国唐代に作られた竜門石窟の力士像(右)。その左は毘沙門天で、当時は単体像だったことが分かります。
金剛力士と日本
現存する日本の最古の金剛力士像は711年に制作された法隆寺中門の塑像(粘土)製の金剛力士像とされています。法隆寺の金剛力士像は筋骨隆々の仁王像です。
一方で、733年頃に建立されたと考えられる東大寺法華堂では二体一対で甲冑姿の金剛力士像と共に、単独尊として執金剛神も一緒に安置されています。
このように8世紀初頭には寺院の守護神として金剛力士像を門の両脇に安置することが一般化し、大きな寺院の門にはたいてい阿吽一対の金剛力士像が安置されています。
金剛力士が安置されている寺院
奈良県 法隆寺 塑像金剛力士像(国重要文化財)
奈良県 東大寺 乾漆金剛力士像及び執金剛神立像(国宝)
奈良県 興福寺 木造金剛力士立像(国宝)
和歌山県 金剛峰寺 大門仁王像(国重要文化財)
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